アグリサイエンティストが行く

農業について思ったことを書いていきます。少しでも農業振興のお役に立てれば。

自然な農産物って?

私が環境保全型農業の推進をしているという話は以前にもしたことがある。そこで言う環境保全型農業とは単純に言うと減(化学合成)農薬、減化学肥料(無農薬・無化学肥料も含む)栽培のことだ。作業に伴うCO2の排出などはほとんどの場合考慮されていない。
一般的には消費者の自然志向および安全・安心志向に応えるためのものと理解されている。しかし、安全・安心と減農薬・減化学肥料栽培が必ずしも直結していると言えないこともすでに述べた。

なので、環境保全型農業といいながら、どちらかといえば意欲ある農家の販売戦略的に活かされるものだと自分としては考えている。ということからして、自分の中ではそれほど「良いもの」としての根拠が感じられないものを一般の消費者が抱いているイメージを利用して販売に活かそうとしているのだから少々心苦しいものがある。

しかし、安全・安心については農薬・化学肥料とも問題がないことも以前のエントリーで取り上げており、となると後は自然志向についてはどうなの、ということになるだろう。ただ、農業という形態が必ずしも自然な状態ではないということもそのエントリーで説明したとおりである。それでは、農業という形態を除けば作物は自然であるといえるのだろうか。

スーパーなどで青果物を見てみよう。キャベツやレタスなどの葉菜類はアクがなく、柔らかい可食部が大きいため、そのまま刻むだけでも食べることができる。なすやトマトなどの果菜類も可食部が柔らかく大きく、甘みもある。そう言った例は枚挙にいとまがないが、そう言う植物が自然に生えているだろうか。まぁ、なくはないだろうが、あっても非常に希有な例であると言えるだろう。もしこういう植物が自然界にあったらどうなるか?たちまち虫や病気の標的にされ、とても生き残ることはできないだろう。つまり、これら野菜や果樹などの栽培品目は、人間の庇護なしにはとうてい生き残れないのである。よしんば、生き残れるものがあったとして、自然の中に放置されて生えているだけではとうてい今の人間の人口を支えるだけの収穫は得られまい。

そう言った生命力の弱いものを現在通用している市場流通価格で提供しなければならないし、現代人の仕事として成り立つ程度の労働力でやって行くにはやはり「科学的な」農業が欠かせないだろう。もちろん、努力や創意工夫で無農薬や無化学肥料による栽培が成り立たないわけではないが、それは大多数の農家にとっては負担が大きすぎるし、小さな負担で成り立つのならここまで科学的農業が発達するはずはないのである。

そう考えれば、「自然農法」という言葉はどう考えてもまやかしに過ぎないと結論せざるを得ない。どうしても、自然のものだけで食料を調達したいというのなら人間の手が入っていない未開の地でそこにそれこそ「自然に」生えている植物や生きている動物を採取・狩猟するだけで生きていくしかない。

ちまたにあふれる「自然なもの・天然のものだけを使用しています」という言葉はそれを聞く人間にとって心地よくないものを排除しているだけに過ぎない。自分に都合の良いところで自然とそうでないものを線引きしているだけだ。きちんとした科学的態度に基づかず、イメージだけで「自然」を志向していると最良の選択を逃し続けることになりかねない。