アグリサイエンティストが行く

農業について思ったことを書いていきます。少しでも農業振興のお役に立てれば。

適地適作が地球を救う?

今回は少々趣を変えて、理想論というか、正直言って暴論も含んでいる。こうすれば食糧問題の解決に近づくといった話ではあるが、実現は難しいというより現実問題としては不可能な机上論なので、そのあたりこういう考え方もあるんだ、くらいに割り引いて読んでいただきたい。

適地適作という言葉がある。これは、そのとおりに読んでいただければ意味は解説するまでもないと思うが、農作物等をその土地の気候や土壌条件を考慮してもっとも適切な品目を作りましょうという考え方である。言葉の意味からすれば、至極まっとうな疑問をさしはさむ余地のない正論である。では、なぜこれが暴論につながるのか。それは論を進めるうちに、おいおい明らかにしていきたい。

たとえば、水稲はどこででも栽培されている。湛水可能な水平面が必要なのに、急傾斜地でも棚田を作ってまで栽培している。そこまでして水稲を増産する必要があるのか?米の確保ということだけから言えば、正直言って無駄だと思う。棚田ほど効率の悪い水稲栽培はないだろう。1aもないような小さい田んぼでは、機械化の恩恵を受けづらい。耕運機にせよ、田植え機にせよ、コンバインにせよ、少し動かしたらすぐに次の田んぼへ行かねばならない。しかも、隅っこのほうまでは機械が届かないし、機械を入れるためのスペースも確保しなければならないので、その部分は手植え、また手刈りをしなければならない。合計面積が同じ田んぼでも細かく分かれているところと一枚の田んぼが広いところではこのデッドスペースの数によって、機械の効率に大きな差が出てくるわけだ。
つまり棚田でないと水稲栽培ができないようなところでは、すっぱりと米作りをあきらめ、傾斜畑にでもして、少しでも一筆の面積を増やし、効率を上げるほうがよっぽどいいのである。ただし、水源の涵養に問題がなければ、だが。つまり、生産効率だけを考えれば、水稲は平地で、一筆の面積が大きく、水はけの良い田んぼに集中して管理するのが最良なのである。それ以外のところは水稲はあきらめるか、野菜等を生産する上において、連作障害を回避するためだけに水稲は時々捨て作りするといいのだ。

ということで、あくまで適地適作のみに絞った理想論で考えれば、国などが国内のすべての農地を管理し、各品目ごとに必要量を算定して農作物の生産計画を立案し、品目ごとに最適地から順に作付けを割り振っていく。そしてどのほ場では何を作る、あなたはこれこれの作物をここで作りなさいとすべて指定すればいいのだ。そうすれば、品質と収量を考慮した最適値が導き出せるだろう。もちろん、割り当てられた品目によっては、儲からないこともあると思うので、栽培面積に応じて農家には十分な補償を行う。
適地で栽培すれば病害虫防除の効率も良くなり、施肥も適正に行うことで環境への負荷も減らすことができる。
もちろん、適地や時期がかぶる品目もあるだろう。それについては、農作物のもたらす全国民の幸福の値が合計で最大になるよう優先順位をつけるしかあるまい。

適地適作、ということだけを考えればこういうことになる。しかし、これが正しいやり方なのかといえば、反対される方が大多数だろうと思う。私だって反対だ。その最大の理由は人間の感情や性質からかなり遠いところにあると感じられるからだ。だからここで”私が述べている”適地適作の考え方は暴論なのである。
こういうやり方をすれば、「個人の努力」に基づく部分がほとんどなくなり、栽培や品目の組み合わせを工夫して楽しく儲かる農業を実践している人にとっては、かなりやる気をそいでしまう。もちろん栽培者による技術格差もあるだろうから、そのあたりをどうするのだ、という問題もある。

いずれにしても、冒頭で述べたとおり、ここまで徹底した適地適作はまったくの暴論に過ぎない。しかし、国内で儲かるためにはどうしたら良いのかと他の都道府県や輸入元国の動向ばかり気にしているのではなく、せめて各都道府県ごとに自分の地域に会った特色のある農業政策を打ち出して、決して無理や背伸びをすることのない農業を目指すことも大切だと思う。

とは言いながら、私の地元では作ろうと思えば農作物は何でも作れてしまうので、特色を出すのがなかなか難しいのであるが・・・。自分ができていないことを他人に押し付けようとするわがままな物言いであるが、これも日本の農業振興について真剣に頭を悩ませているものということで、今日のところはこのくらいで勘弁しといたろ。
・・・じゃなく、勘弁しておいてください(笑)。