アグリサイエンティストが行く

農業について思ったことを書いていきます。少しでも農業振興のお役に立てれば。

有機農法は「自然」なのか

有機農法という言葉がある。JAS法の定義によると「農薬や化学肥料などの化学物質に頼らないで、自然界の力で生産された食品」ということになる。認証の細かい部分まで解説するとブログの範疇を超えてしまうので、ここには書かないが、詳しく知りたい方はこちらを参照して頂きたい。

要するに、有機農産物とかオーガニックとか言う言葉を使おうとしても、JAS法という食品の規格と表示を規定した法律があるので、その法律に則った正しい方法を使わないとそうは表示できないのであるが、ここでは、便宜上化学肥料や化学合成農薬(以下面倒なので特に断らない限り単に「農薬」と書かせて頂く)を一切使わないで栽培した場合をすべて有機農法と呼ぶことにする。

さて、世の中には自然回帰指向の人がいて、そのレベルも様々である。全く世俗から離れて仙人みたいな生活をしている人から、実体としては都会のビジネスマンなのに、ロハスに憧れて時々なんちゃっての自然な生き方を満喫している人まで同じ自然回帰指向で括るには多少無理があるのではないかと思うことも多々ある。

ということで、農作物に対する「自然」の要求も人によって色々なレベルがあり、そういった有機農産物などに対して払える対価も変わってくる。今までの経験からして(統計は取っていない。あしからず)スーパーなどで有機農産物と一般農産物が並んで売っていたとして、ほとんどの一般家庭では少しでも高ければ有機農産物には手が出ないと思う。逆に、同じ値段で見栄えが同じなら、ほとんどの人が有機農産物の方を取るだろう。
ただ、普通のスーパーではなく「生協」になると、やや高くても有機などを購入する人の割合が増えるようだ。これは、やはり生協に求められているイメージがそういうものなのだろう。

結局、何が言いたいのかというと、高くても有機農産物を、という人は限られているということだ。闇雲に有機を追い、苦労して品質の良いものを作って有機農産物という表示をして売ったとしても、なんの工夫もなく店頭に並べただけでは儲けに繋がらないということになる。こういうものを好み、少々(どころか出来るだけ)高くても買ってくれる顧客を見つける、それを固定客として取り込んでしまう、これができなければ安定して生活できる収入は得られないわけだ。

つまり、農家経営ということを最優先に考えれば、有機栽培を手がけるというのはあまり得策とはいえない。農薬や化学肥料を使う慣行栽培に比べ、当たり前だが手間がかかる。その分を人件費として捉える、または慣行栽培を行うことによって省けた手間を規模拡大に向けると考えれば、単価がほとんど変わらないのなら慣行栽培のほうが儲かるのだ。それではなぜ国や県などの自治体は有機栽培あるいは減農薬・減化学肥料栽培を推進するのだろうか?安全・安心のためだろうか。安全・安心のためだというのなら、何のためにあれほど厳しい農薬の残留基準設定があるのか。それでも農薬を使うというのは安全・安心上好ましくないのか。

農薬の残留基準値設定についてはもう解説したので繰り返さないが、基準値設定のための試験が適切に行われているのであれば、どう考えても基準どおりの使用方法を守っている限り農薬は安全であるといえる。最近は役人が信用ならないと考えている人も多いようなので、業者と役人の癒着により試験結果が歪められ、残留基準値の設定自体信頼性に疑問があると思う場合もあるかもしれないが、少なくとも自分の周りにいる研究者たちは真摯に取り組んでいると断言しておくし、それが普遍的な研究者の態度だと自分は思っている。そのデータが監督省庁でどのように活用されているかはわからないが、自分の周りの研究者同様現場の第一線で働いている人たちは監督省庁の内部であれ、自分の知る限り真摯に仕事を行っていることも申し添えておく。

ついでながら、化学肥料の安全性についても論じておきたい。農薬同様化学肥料も毛嫌いする人がいるが、たいていの場合農薬が病害虫を抑えるという効果以外植物にとっては必要のないものであると考えられるのに対し、化学肥料は植物にとって必要な栄養素であるというところが決定的に違う。化学肥料が「化学的に合成された」という部分をなんとなく未知のもののように気持ち悪く感じ、体に悪いのではないかという漠然としたイメージを持っていることもあると思うが、化学肥料の成分自体にはまったく問題はない。たとえ有機質肥料であれ、水溶性の化学肥料と同じ成分になった上で植物体に吸収されるのだ。たとえば窒素であれば、有機質肥料に含まれるたんぱく質のままで吸収されることはなく、微生物によって分解され、多くの場合硝酸態窒素になってから吸収される。アミノ酸なら直接吸収されることもあるだろうが、それとてそのまま植物体の構成成分として直接取り込まれるわけではないと思う。
その硝酸態窒素あるいはアンモニア態窒素を化学的に合成し、製剤化したものが化学肥料なのである。つまり、有機物が土壌中でゆっくりと分解される過程をはしょっているだけなのだ。ほかにも燐酸や加里、その他の微量要素などもあるが、おおむね同じような過程を経て吸収され、化成肥料となるいきさつも同じようなものである。
一つ付け加えておくと、化学肥料は化学工業製品の副生産物を流用して作られることが多いため、予期しない不純物が含まれている可能性は否定できない。しかし、これも製造者が適切に管理していればまず問題になることはないと思うが・・。

では、有機栽培や減農薬・減化学肥料を推進する理由は何なのか。それは環境に対する負荷の低減である。農薬が栽培中の農作物に使用され、それが適正である限り食料品としては問題がないとしても目的とする害虫以外の虫やそのほかの生物を殺すことは十分にありうる。つまり、周辺の環境に農薬が流出した場合などは特にであるが、生物の連鎖を崩し、生態系に影響を与えてしまうことが考えられる。また、特定の害虫や病原菌だけを殺すことによって周辺の生物の占有状況も変わるだろう。
化学肥料はというと、植物体に吸収される成分のみ効率よく組み合わされているため、植物が吸収してしまう以外には土壌微生物が利用できず、化学肥料だけしか施用せずに栽培していた場合いわゆる「土地がやせた」状態になってしまうのだ。また、化学肥料は有機質肥料に比べ植物が利用できる養分としての有効成分が高い。つまり、有機質肥料に比べて同じ面積の田畑なら少量の施用で済む。これは、裏を返せば化学肥料では少しのやりすぎが大きなやりすぎにつながるのだということだ。肥料のやりすぎは水系に影響し、河川なら富栄養化を招き、地下水なら飲料水の汚染につながる。ただし、化学肥料なら有効成分が高いためそうなりやすいというだけで有機質肥料であっても大量にやりすぎれば同じことを引き起こすので、いずれにしても肥料は適正に使うべきである。

それならば、やはり農薬や化学肥料は使わないほうがいいのではないかと思う人が多いと思う。それはそのとおりで、われわれ農業の研究・普及に従事する人間も最終的な目標としてはそこへたどり着ければいいなぁ、とは思っている。しかし、まだまだ現実としてはそうはいかない。
と書くと、そんなことないだろう、実際に有機農産物を栽培し、それでやっていっている生産者もいるではないかという意見も出てくるだろう。しかし、そういう人はほかの生産者と区別し、付加価値をつけて少ないニーズを掘り起こし苦労に見合った報酬を得る努力をしている。日本の生産者が全員有機に取り組んだとして、農作物の差別化ができなくなれば、結局高くは売れず、苦労した分だけ損であるし、大規模化も不可能なので結局やっていけなくなる。また、有機栽培ばかりになれば作柄が気象条件などに大きく左右され、昔のような飢饉に陥る可能性だってある。有機栽培などでやっていけている人は少数だからこそ、ニッチだからこそやっていけるのである。

農業はもともと自然から派生したものであるのに、なぜ自然には作ることができないのだろうか。それは、農業自体がすでに自然ではないからである。考えてもみてほしい。とある区域内に一種類の植物しか存在しない、そういう状況が自然にあるだろうか。キャベツならキャベツだけ、ネギならネギだけが整然と並び、育っている。そういう状況が自然だろうか?狭い区域内に一種類の植物のみしかなければ、あるいは突出した優占種であれば、当然それを狙う病害虫にとっては天国のような環境である。ちょっと入り込んで繁殖すれば、周りにいくらでもえさがあるのである。しかも、そこに植わっているのは野生種ではなく、人間が食べることを最優先に考えて育成されてきた園芸品種などだ。これに手入れをしないのであれば、ますます病害虫にとっては繁殖してくださいといわんばかりの状況になってしまう。
自然環境では、厳しい中を生き残ってきたものばかりが生存を許されているのであり、人間に保護されているからそこに生きているのではない。また、多様性が保たれているからこそ同じ状況が続いているように見えるのである。つまり、本当に自然回帰を志向するのなら原始の昔に返って狩猟や採取のみで生きていくしかない。というわけで、有機栽培といえども農業として栽培している以上、自然とはいえないのである。

それでも、人類は農耕開始以来から振り返ってみても農薬や化学肥料を使い始めたのはごく最近のことであるし、自然ではないのはわかったがそれでもそのあたりまでなら後退してもやっていけるはずだという意見もあろう。しかし、人間は、特に日本などでは少々増えすぎている。資材やエネルギー、労力を集中して効率よく作物を生産しないととてもではないがやっていけない。それをわからないで、とりあえず食べるには困らない我々がのんきに(いろいろな意味で)生産効率のよくない有機農産物を求めるということは、日々の食料を手に入れかねている開発途上国の人々に思いを馳せれば、とんでもない贅沢な話だということは自覚しておいてほしい。