アグリサイエンティストが行く

農業について思ったことを書いていきます。少しでも農業振興のお役に立てれば。

カロリーベースの食料自給率向上は必要か?

現在、食糧安全保障の観点からカロリーベースの食料自給率(このときの「食糧」と「食料」の使い分けについては自分自身迷っているが、それについてはいつか述べたい)を向上させようというのが、農林水産省の主張であり、国民的コンセンサスを得られていると思われる。事実、自分の職場でも食料自給率向上へ向けた政策に沿った業務を行っているし、多くの職員がそれに疑念を抱いてはいない。

もちろん、それが無理なく実現できるのなら概念としてはベストの選択であることは間違いあるまい。しかし、である。物事には必ずベネフィットがあればリスクもある。食料自給率向上に関して、このベネフィットばかり強調して、リスクに対する概念が決定的に不足していないかというところが心配されるのである。

私は、現実的な自給率はともかく、「自給力」については日本が持つポテンシャルは決して低くないと思っている。特に、水稲の生産性についてはかなりのものがあるだろう。減反をやめ、消費者価格の事を無視してさまざまな食品に米粉を使ったり、余剰米を畜産飼料に転用したりすればそれだけでそこそこ自給率向上にはなろう。それに、食べ残しを減らすことを加えれば、さらに効果は上がると思う。
しかし、急に減反をやめれば米の市場価格がどうなるか自分には予測もつかないし、それによって価格が下がったとしても米粉が小麦粉などに対して、また畜産飼料としての競争力があるようになるとは思えない。つまり、これらのアイディアは現実には即していないということになる。もし、実行するのだとしたら、生産者が食べていけるだけの市場価格を消費者に納得し、現実に購入、消費してもらう必要がある。少なくとも、すぐにできるわけがない。

いずれにしても、国内の食糧を増産するだけでは問題は解決しないということだ。農業が儲からなければ生産者だってこれ以上手を拡げようがないし、サラリーマンのほうが儲かるというのであれば食料自給率向上のためだけに農業に参入しようかという人もあるまい。

そこで、というわけでもないかもしれないが、農業のコスト低減を目指して担い手への集約と企業の農業への参画による大規模化が模索されているのだが、それは果たして諸手をあげて推進していいものだろうか。

本当に農業を守りたいと言う意欲のある担い手に集約するのならともかく、企業の場合は利益が得られなければ撤退するものであるし、仮に少々のことでは撤退したくないという意欲のある企業であっても倒産してしまえば元も子もない。まぁ、それについては担い手であっても、経済的に破綻してしまえば同じことなのであるが・・。

それともうひとつ気になるのは、バーチャルウオーターの問題である。植物を育てるには、水が必要であることは小学生でも知っている。特にアメリカの乾燥地帯を開拓して栽培されているトウモロコシなどは大量の地下水を使用している。日本で同じだけのカロリーを持つトウモロコシ(でなくてもいいが)を生産しようとしたら、やはり大量の水が必要になるわけである。そのトウモロコシなどを飼料として肥育された牛の肉となれば、同じカロリーを得ようとしたらなおさら大量の水を消費していることになる。これらに使用された水をバーチャルウオーターと呼ぶ。農作物に仮想の水が乗っかって輸入されているという概念だ。日本は水が豊富な国であるとはいえ、これだけ大量にさまざまな農作物を輸入・消費していることを考えると、それを補えるほどの農作物を育てるための水が手当てできるのかどうかという問題があるわけだ。

これらのことを考え合わせると、食料自給率を向上させることは、生産者も消費者も考え方のベクトルを変える必要があることがわかる。もちろん、なるべくお米のご飯を食べる、食べ残しを減らすなどちょっとのことで実現できることはやるべきだが、生活における「食事」の比重を高め、農業はただの産業ではなく「公共の財産」であるから国民全体で保護していく必要があるというように生活の根幹にかかわる部分の考え方を転換するのは容易ではない。
そのあたりを考慮せず、単純に食料増産で自給率向上ができると思っているのなら、それは大きな間違いだ。今の日本が抱える農業のさまざまな問題点を考えれば、いたずらにカロリーベースの大幅な自給率向上を唱えるのではなく、「何かあったとき」の海外からの食糧確保に関してさまざまな事態に対応できる手を打っておくといった食糧安全保障との両面から手当てをしておく必要があるのではないだろうか。

そして、拙速な「自給率向上」を目指すのではなく「自給力」を保持しておき、徐々に「国全体で支える農業」へ意識を転換していくことが大切なのではないかと私は考えている。