アグリサイエンティストが行く

農業について思ったことを書いていきます。少しでも農業振興のお役に立てれば。

優しい心って・・・。

自分は常に人に優しく接したいと思っている。思ってはいるが、気が利かないことと、心が狭いこともあって、なかなかうまくいかない。それで、優しくする、というのはどういうことかといつも考えていることなどを書いてみたい。

ほとんどの人が気づいていると思うが、親切心の発露と言うのは基本的に、自分がこうされたらうれしいと言うことを他人にする行為ということになるだろう。しかし、これも多くの人が気づいているように必ずしも自分がしてほしいことと他人がしてほしいことは一致しない。人を思いやると言うことがその人の立場にたって考えると言うのは決して間違いではないが、それですべて解決するかのように考えるのは危険である。

恥を忍んで自分のことを話してみよう。私は連れ合いと一緒になってもう20年が過ぎた。そのくらい一緒に居れば隅から隅まで相手のことをわかっているのが当たり前という感覚もあろうが、そうではない。理想的な夫婦のあり方としてお互いを思いやり、支えあうという考え方は非常に美しい。しかし、現実の生活場面で家事をシェアするだけが支えあうと言うことではないだろう。たとえば、仕事などで強いストレスがあり、大きく落ち込んでいるときに家族の存在は非常に大きい。暗い気持ちで玄関を開けたとき、明るい笑顔で迎えてくれた子供たちにどれだけ救われたかわからない。とはいえ、子供たちは私のそういう状態に関心があるわけではない。いつもと変わらず接してくれるだけだ。それだけで随分救われる。子供とはそういうものだろう。

しかし、連れ合いの場合は少々事情が違う。お互いのタイプというか人柄によってはいつもと変わらず接してくれるほうがいい場合もあろうが、私はどちらかと言うと一緒にストレスに立ち向かってくれるほうがありがたい。本音で愚痴を言える相手など、連れ合い以外にはいないと思うのだが、うちの場合は子供たち同様私のそういう状態に関心がない。私の愚痴よりもテレビに対する関心のほうがはるかに大きいようなのである。もちろん、こんなくたびれたオッサンより嵐の5人のほうが魅力的であることは否定しない。しないが、こちらが落ち込んでいるときくらい嵐より連れ合いに関心を持ってくれてもいいだろう。

こういう状態なので、長い間(新婚時は別にして)なんて薄情な嫁だとずっと思っていた。いや、普通に仲はいいのだが、こっちが大変なときくらい支えてくれよ、と思う。その代わり、君が大変なときは僕が全力で支えるからさ。

しかし、最近それは違うのではないかと気づき始めた。と言うのも、イラストレーターのけらえいこさんがエッセイ漫画でこういうようなことを描いていた。「人には辛いときに誰かに一緒に居てほしいタイプと、一人で耐えて乗り越えるタイプがある」と。うちの連れ合いはグダグダの愚痴はほとんど言わない。もちろん、まったく愚痴を言わないわけではないが、しつこく、暗く、粘っこい愚痴はまず言わない。そういうストレスがまったくないとは思えない。もしかしたら私自身がそ言ういうストレスの元になっているために私には言えないだけかもしれないが、それを脇にどけて考えるとうちの連れ合いは「一人で耐えて乗り越えるタイプ」なのではないかと思えるようになった。なので、私が辛いときにも「気を使って」放っておくのかもしれない。彼女にとっては、それがストレスを早く克服するコツなのかもしれないと。

まぁ、これは一例に過ぎないし、これ自体単なる推測でしかないのでこんなステレオタイプな型にはめた論から様々な「親切心」に一般化して当てはめるわけにはいかないだろうが、「その人のために」良かれと思ってやったことが必ずしも相手の求めていることかどうかはわからない。わからないが良かれと思ってやってくれていることを正面切って否定するのも難しい。

ともあれ、本当の優しさを身に付けるためには、まずはその第一歩として自分と人とは違うと言うことを理解することが必要だろう。他人が何を望んでいるのかを知ることは非常に難しいが、自分の思い込みだけで「これはその人のためになるはずだ」と状況も見ずに突っ走ることなく冷静に判断し、常に間違いを修正し続ける努力はしたいと思っている。