アグリサイエンティストが行く

農業について思ったことを書いていきます。少しでも農業振興のお役に立てれば。

半夏生と解釈改憲

半夏生、という言葉を見かけて思い出したのだが、この日までに農家は田植えを終え、この日を休みとすることが多い。特に四国地方では「さのぼり」という田の神を送るという行事を行い、香川県では地区にもよると思うが打ち込みうどんを食べたりする。これがどじょううどんのところもある。

自分は直接その運営に関わっていないので詳しくわからない部分もあるが、その昔は農業関係の公的機関でもさのぼりの日はその行事が終わったあとは仕事をしなくて良かったらしい。お昼になると早朝から女性の臨時職員に出てきてもらい、大量のおはぎとうどんのだしを作ってもらっていた。

もちろん、早朝から働いていてくれた女性臨時職員の方たちには行事が終わり次第帰宅してもらっていたという。それらが正規の手続きを経て早朝出勤及びその振替休としていたのかは自分にはわからない。とにかく、現実にはそういう手順で行事が行なわれていた。

もちろん、現在の基準からすれば「良くないこと」なのだろう。いや、当時としてもやるべきではなかったのかもしれない。そこは自分にはなんともいえない。しかし、そういうものなのだ、と思っていたという事は反省も込めて正直に告白しておきたい。

ともあれ、そのように一定の人が懐かしがる「昭和の時代」は「情」によって都合よくルールが解釈され、運用されていたと思う。それはもちろん良い面もあった。「さのぼり」の例ではそれには該当しないと思うが、そういった「温情」によって救われた人もたくさんいただろうと思う。

しかし、人間というのは縛りがなければゆるいほうに流れていくことが多い。もちろんそうでない人も多いが、そういう情によってルールを緩く運用することを許すという事はそれを悪用する人物も必ず出てくる。さらに、明確なルールがなく、慣習だけしか存在しないならなおさらだ。

そういう場で人間関係を構築していく場合、特に立場が上の人間はしっかりと自分を律することが出来る人物でなければ、セクハラやパワハラを生んでいくのだろう。それが社会では「必要悪」と思われていたのが昭和という時代だったのではないだろうか(あえて昭和で区切っています)。

だから、「情」で救われていた、そのおかげで生きやすかった人達が自分にとっての「古き良き」時代を懐かしむのはよく理解できる。大きな逸脱がなく、全体としてその方が効率よく仕事などが回っていくならそういう緩い社会のほうが生き易くていいのだろう。

自分などは勤勉には程遠い人間なので、そういう緩いルールをうまく回していく社会のほうがうれしいが、しかしそれだと現代においてはデメリットのほうがはるかに大きいのだろう。自分の周りでも、そういう慣習的な部分を自分に都合よく解釈して周りに迷惑を掛けている例がある。

社会的な例で言うと、わかりやすいのはセクハラ、パワハラだろう。また、食品関係では豚のレバ刺しを店で出す、などだ。これらは明文化されたルールがないのをいいことに、自分に都合の良い解釈をした結果、より厳しい社会を生み出し、自分で自分の首を絞めているわけだ。

色々ルールは細かくなって、一見厳しいようだけどそれはみんなが安心して平等に暮らすために少しずつ改良されてきたものだ。もちろん完全ではないけど、そのおかげで救われている人は昔より増えているはずだと思いたい。間違っているなら、きちんと手続きを経てルールを変えるべきだ。

だから、今回の内閣が推し進めている解釈改憲はその内容の是非はおいておくとしても賛成できない。こんなことをしていると現行政権は必ず痛いしっぺ返しを食らう。そうでなければこの国の行く先は真っ暗じゃないか。

岡本信一さんの「土壌を簡単に考え過ぎなのだ!!!」について

農業コンサルタント岡本信一さんが書かれているブログ「あなたも農業コンサルタントになれる わけではない」に「土壌を簡単に考え過ぎなのだ!!!」lというエントリーがある。このエントリーについては、おおむね同意である。これは岡本さんらしい問題定義だ。しかし、それに直接答えになる何かを提示するわけではないが、気になることがあるので少し触れてみたい。

土壌を面で捉えている、ということに関して補足しておくと通常10aあたり肥料kgというと表層10cmで考えることが多い。土壌化学性の診断を行なう時は乾土100gあたりmgという単位を使う。土壌を風乾(日陰で自然乾燥)させ、2mm目合のふるいにかけたものから、測定したい成分に合わせた抽出法を使って抽出し、発色液を使って色の濃度測定から成分濃度を計算したり、原子吸光光度計という測定機器を使って成分濃度を測る。そして、抽出した土壌の量と抽出に使った液量から乾土100g中の成分mgを計算する。

そして、土壌の仮比重を1として(ほ場にある土壌の状態で、孔隙(隙間のようなもの)なども含んだ比重)表層10cmの成分と仮定すると、乾土100g中の成分mgは10aあたりの成分kgと同じ数字になる。

このことから、土壌の化学性診断では乾土100g中の成分mgを10aあたりkgの基準値(及び成分バランス)と比較して過不足を判断し、標準となる施肥設計から各肥料の増減を行なう。といっても、減らす場合がほとんどで増やす事はまずない。

このあたり、説明はするがあまり農家さんには理解してもらえない。自分の説明がまずいと言うのもあるだろうが、そもそも理解する気がない人も多い。しかし、理解する気がなく、岡本さんが言うように土壌を簡単に考えすぎていると同ブログの次のエントリー「農家は環境問題をどう考えるべきか」という次の世代への継続の問題解決が難しくなってくるだろう。

化学肥料の問題点は、過去のエントリーを参照していただきたいが、ここでも述べているように、日本農業の施肥による環境問題は1つは元肥偏重による環境への肥料成分の流出である。これはすばやく効く化学肥料の性質に合わせ、手間と収量、品質(主に規格に合わせた外観品質)のバランスを考えて各地の農業試験場などで試験の結果導き出されたやり方ではあるが、環境へ配慮されているとは言いがたい。化学肥料のみを使うと考えた場合、効率を無視すれば植物の生長と肥料成分の吸収曲線に合わせ、細かく回数を増やして、天候も考慮しつつ少しずつ追肥していくと品質、収量を保ったまま(食味の向上にもつながると思う)環境負荷を減らす事は出来ると思う。しかし、そこまで手間を掛けると農家の作業負担があまりに重く、栽培可能面積は極端に少なくなる。つまり、現実には不可能に近い。養液土耕という栽培方法がこれに近いが、設備投資が必要になるという欠点がある。

結局あまりまとまらない話になってしまったが、これをきっかけに土と肥料から環境を考えていただければ幸いである。

農機を買うこと

今日、農協職員の方と話していて気が付いたことがある。農家の中には、一定の割合で農業にワクワク感を感じている人がいて(ここまではこの仕事に関わった当初からそう思っていた)、さらにその一定の割合にそのワクワク感が農業機械に向いている人がいるということだ。

その農協職員の方曰く、
「いや?、若い頃は車庫に収まる車やバイクを見て悦に入っていたんですが、近頃は農業機械にお金がかかって、車庫はトラクターや管理機なんかでいっぱいなんですわ。困ったもんです」
とのこと。しかし、口では困った困ったと言いながら、顔はぜんぜん困っていない。むしろ他の話をしているときに比べて思いっきり輝いているのだ。
「今度、組合員さんに新しい管理機とセットでアタッチメントの表層攪拌機をお勧めするんですが、自分も買いますよ!お勧めする以上、自分も持ってないと!」
どう見ても、自分が真っ先に試したい、その機械を車庫のコレクションに加えて眺めたい、そして使い勝手などを語り合いたい、と顔にはっきり書いてある。
「これで皆さんの作業が便利になって、ブロッコリーの面積が増えたら農協職員としてうれしいです!」
いや、この人の性格からしてきっと心からそう思っているとは思う。しかし、である。あんた自分が欲しいというのが一番やろ(笑)。自分では気づいてへんかもしれへんけど。

この仕事をし始めてから、やたら農機を買い換えたり、新製品を試したりする人が一定いることには気づいていた。もしかしたら、とも思っていた。しかし、これではっきり確信が持てた。

私がバイクや車を欲しがり、これから買おうかと色々物色しているときもすごく楽しく、また実際ツーリングに出かけるのも楽しく、ブログを書いて、他人とその情報を共有したりしてその喜びはさらに増していく。磨いてきれいになった車体を見て満足する。そういったものと、農業機械を趣味のように扱う人の気持ちはまったく同じなのだ。新しい機械が発売され、それによって自分のライフスタイルが変わる夢を見させてくれる。そして、購入を決意するまでそういったライフスタイルの変わった様をシミュレートしたりしてさらにワクワクするのだ。

そして、入手したら今度は仲間と機械談義。
「今度の管理機はえらい土が上がるやないか?」
「ホンマやのう。ワシも今度これにするかのお?」
おわかりのように、内容が農作業になっただけでバイクやクルマ談義と同じである。私も農家であれば、そういうタイプになっていたに違いない。

結局、何が言いたいのかというと、オッサンって結局そういう生き物よね!
↑根拠なしの決めつけ。てか、女性にだってそういう人いますよね?(文体が変わってるぞ)

炭素を循環させるってどういうこと?

先日、ツイッターで「炭素循環農法ってなに?」という会話がされていた。普通に循環型農業をやっていると結果として炭素を循環させることになるのだが、わざわざそういった「農法」を名乗る以上、何か特別なことがあるのかと思って調べてみたら、基本的には炭素を循環させることでその他の肥料を施用しなくても栽培できる、という技術らしい。

もちろん農業というのは物質的な収奪を行なっている以上、無肥料(成分)というのはありえない。肥料を施用しない代わり、何かが田畑に入っているはずではある。そのあたり、ツッコミどころはあるのだが、どうも炭素循環農法にもいくつか流派があり、さらに個別に色々な工夫があるので、それぞれを個別にどうこう言うのは非常に難しい。そこで、とりあえず今回は「炭素を循環させることの意味」についてのみ解説したいと思う。

炭素は植物にとって、というより生物にとって最も基本的といっていい元素だろう。「有機物」という言葉を説明するとき、「炭素を含んでいるもの」というとかなりの確率で当てはまると思う。例えば植物にとっては水素、酸素と結合して多糖類として繊維となったり、少し小さくなってでんぷんなどになったり、さらに小さくなって単糖(ブドウ糖や果糖など)になったりして様々な形態で必須のものとして存在する。要するに、植物にとっては体を構成する最も基本的で、大量に必要な元素ということになる。

しかし、植物は「光合成」という手段を使って、光エネルギーを利用して大気中の炭素を取り込むことが出来る。ではなぜわざわざ栽培者の手で循環させねばならないのだろうか。答えの1つは、以前も説明したことがある土作りである。

土作りは、主に有機物を施用することによって土壌の物理性や化学性を改善するということになるが、そのうち、最も重要な役割を担っているのが腐植酸(フミン酸)である。土壌中に施用された植物体(堆肥化されてからのことが多い)が土壌微生物に分解され、最終的に残ったものが腐植酸で、濃いこげ茶色で粘性が高い状態で土壌中に存在する。これが細かい土壌粒子同士をくっつけて団粒構造を作り、土壌の排水性、保水性といった物理性を改善すること、陰荷電を持っているため、陽イオンである塩基類(石灰、苦土、加里など)を保持して緩衝力を高めることは以前のエントリーで説明したとおりである。

その腐植酸であるが、元素の組成としては半分以上が炭素であり、あとは多い順に酸素、水素、窒素などを含む。これが先ほども述べたように、土作りに大きく関与するが、その構成元素として炭素が最大であるので、主に植物体を土壌に還元して炭素を供給、土壌の炭素率を向上する事は大きな意味を持つ。

先ほど、腐植酸は土壌で有機物が分解され、最終的に残ったものと書いたが、もちろん腐植酸もゆっくりではあるが分解され、二酸化炭素や水などになり、自然循環の環に戻っていくのである。

水やりのおはなし

家庭菜園であれ、プロ農家であれ、水やりは最も重要な基本技術でありながら自然にも左右される難しい技術だと思う。私は、自分自身が農業を営んでいないため説得力を欠く部分があるが、普段の指導の中からわかった基本的なところをまとめてみたい。

1 水やりはなぜ必要?
植物に水が必要な事はいまさら言うまでもないことだろう。基本的に植物は根から水を吸い、それに溶けた養分を同時に吸い上げる。また、葉で光合成して産生した同化物(糖分)を植物体各部に送るのも水を介して行なうのである。
植物は水をやらなければしおれてしまう。水を含むことで細胞が膨れ、植物体を支える力の1つになる(樹木では幹が木質化しているためこの限りではない)。水分が足りなくなれば空気の抜けた風船のごとくしぼんでしまうわけだ。このため、常に植物が植わっている土壌には適切な水分を供給しておく必要がある。ただし、水はやりすぎるばかりも良くないことが多い。水をやることで根に呼吸できる環境を作っている面もあるからだ(詳しくは後述)。

2 植物栽培での水の動き
植物体の水分は、主に葉の裏にある気孔から蒸散され、水分ポテンシャルに勾配が出来ることから根から上部に水分が移動する。一般的に気温が高くなれば蒸散が激しくなり、大量の水分が必要になる。また、植物が生長し、葉の量が多くなればやはり水分の蒸散量は多くなる。これに、地面から直接水分が蒸発することと併せて、気候に合わせた潅水の調節が必要になるのである。
栽培ほ場の地表面にかけられた水は、ある程度が表層をそのまま流れて行ってしまい、残りが土壌にしみこんでいく。
通常の潅水方法(はす口のジョウロや潅水チューブなど)でかけられ、土壌にしみこんだ水分は層状に土壌中を下方へ移動していく。もちろんその一部は土壌孔隙に捕らえられて残っていく。このとき、土作りができていなければ土壌孔隙が大きすぎて水が捕らえられなかったり(砂地のような場合)、逆に少なすぎて水分保持はするものの水の入れ替わりが極端に少なくなったり、表面での流亡が多くなったりする(粘土質などの場合)。
点滴潅水という方法が近年の施設園芸で発達してきているが、これは一定の間隔で穴が開いているという点では通常の潅水チューブと同じであるが、この穴の部分に工夫があり、一定以上の水圧がかからないと水が出ないようになっているチューブを使った潅水方法である。このため、チューブ全体に水がいきわたるまで水が出ることがなく、均一な潅水量になる。また、点滴の名のとおり少しずつぽたぽたと垂れるように水が出るので、表層を流れていく水がほとんどない。少しずつ土壌に染み込んでいくため、毛管現象によって横にも広がりながら下層へ移動していく。
土作りが十分できていると団粒構造が発達し、団粒同士が孔隙を形成し排水は良くなるが、団粒そのものが水分を保持し、排水と保水性を両立した土壌にできるのである。
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団粒構造とは、模式的に表現するとこのようになっている。小さい土壌粒子(濃い茶色)を腐植物質(薄い茶色)が糊のような役割をしてくっつけて塊を作っている。このおかげで孔隙(隙間)が大きくなり、通気性と排水性が確保される。それと同時に、団粒そのものは水を保持するので、相反する二つの性質を同時に持つ土壌になる。
3 水分を供給する、ということ以外の水やりの働きとは
先ほど、水やりは呼吸にも関わっているという話をしたが、それはなぜか。土作りができていると、土壌孔隙が適切に出来るという話をしたが、この土壌孔隙は空気を根に供給するという役割も果たしている。しかし、大気とつながっているというだけでは空気はほとんど流通せず、結局根に酸素は届かない。この土壌孔隙へ水が入り込み、古い空気を押し出し、また下層に流亡あるいは植物に吸収されるなどしてなくなると負圧で新しい大気が取り込まれる。こうして地下部に大気が供給される要因のひとつとなっている。
また、水分は比熱が大きく、夏季には潅水による直接の地温低下のほか、蒸発によって熱を奪っていく。低温時には結氷して熱を放出し、急激な温度変化を抑える。

4 水やりの基本的考え方
では、どのように水をやるのが理想的なのだろうか。品目や栽培様式によって最適なやり方は変わってくるので、ここでは基本的考え方のみについて述べておく。
一般的な畑作物では常に根が水に浸かっているような状態は良くない。土壌中に水分は存在するが、十分に空気も存在する状態が好ましい。毛管水といって狭い孔隙に保持されている水はあるが、それ以上の大きい孔隙には空気があるという状態である。しかし、土壌水分を完全に一定にし続けるのは物理的に不可能なので水をやった直後はやや多め、直前はやや少なめであると理想だろう。これだけを指標にされてしまうと困るが、大まかに言ってしまうと表面はやや白く乾いてきているが、少し掘ると下には水分を含んだ土がまだある(軽く握って固まる程度)という状態で、乾いた部分に水分がいきわたり、ややあまるくらいに水をやる、ということになると思う。
このとき、表層にやった水と下層に存在する水の間に乾いた土壌の層が残っていない、というようにしたい。表層の水が下層につながっていないと、上からかけられた水が肥料などを溶かしながらある程度まで染み込み、表面が乾くことによって毛管現象で水分は上に向かって吸い上げられていく。このとき、いったん溶かした肥料成分が蒸発に伴って濃縮されていくので表層近くの肥料濃度は非常に高い状態になってしまう。
苗を植えたばかりで根域が浅い場合などにこういうことがおきると、肥料をやりすぎていないのに根が肥料やけを起こしてしまう原因となってしまうのである。
また、表層と下層の水がつながっていないと、根の発達がそこで止まり、根域が浅くなって旱魃に弱い株になってしまうことが多い。
鉢植え、プランターや苗の場合は多少事情が違うが、基本的考え方は共通している。それらの場合はたいてい鉢のスケールや品目に合わせて土壌の組成が変えられているし、透水性も確保されていることが多いので、たいていの場合は乾いたらたっぷり、という考え方で良いと思う。鉢底から流れ出てくるくらいたっぷりやり、表面が白く乾いてきたらまた水をやる、という具合である。
そのほか、季節によって水やりの最適な時間は変わってくる。一般的に夏季は夕方または早朝、冬季は午前中が良い。夏季の日中に水をやると地温が上がりすぎ、またホースの中の水も高温になっていることがあるなど根を傷めることが多い。冬季は夕方に水をやると地温が下がったまま長時間回復せず(凍結の心配もある)、やはり根に悪影響がある。

以上、水やりの基本について思いつくままに述べてきたが、これらはあくまで基本的なことであって、品目や状況によって実際のやり方は変わってくる。そのあたりは経験者やJAの営農指導員、農業改良普及員のアドバイスを受けながら覚えていってほしい。

野菜(植物)の奇形はなぜ起こる? ?スーパーでは揃った形の野菜たち?

さて、津波などの災害で多くの方が亡くなられた東日本大震災からもうすぐ3年がたとうとしている。同時に、あの震災では福島第一原発が大きな事故を起こし、多量の放射性物質が放出された。その後、関係者の大変な努力によって放射性物質の多量な放出は収まっているが、事故はまだ収束したわけではなく、まだまだ予断を許さない状況である。

この記事は、放射性物質の現在の状況やその対策について語る場ではないのでそれらについては割愛させていただく。ただ、一部を除いて環境中放射性物質の状況は改善してきており、これも関係者の努力によって福島県産を初めとする東北の農作物はまったく心配のないものが流通している(福島県HP農林水産物のモニタリング結果)。

にもかかわらず、「原発 植物 奇形」などで検索を行なうと植物の奇形情報やまとめサイトなどたくさん引っかかってくるし、2013年の日付でそれらについて言及したブログも見られる。そういった方面にはあえてリンクを張らないが、いまだにそういう情報が多いようなので、ここで一度植物の奇形について解説してみたい。

最近目にしてびっくりしたのがイチゴの鶏冠果についてのことである。これは、イチゴの果実が扇形に広がり、異様に大きくまるで鶏のとさかみたいな形になったものである。これが原発事故による放射線の影響であるということを言っている人がいたのだ。しかし、これは放射線の影響による奇形などではなく、事故前からいくらでも見られたもので、「イチゴ 鶏冠果」で画像検索をかけるといくらでも出てくるので試してみて欲しい。

イチゴの鶏冠果は花などでよく見られる「石化」や「帯化」と呼ばれるものと同じ現象と思われる。通常円形になるはずの花が石化状態となって楕円形になったりした場合、規格外となって出荷されることはないので、一般の方が目にすることはほとんどないと思うが、特にマーガレットなどでは起こりやすく、細長くモップのような形状になった花は栽培現場では何十年も前から結構多く見られる。また、いけばなをされる方は材料としてよくごらんになると思うが、石化が常態と化している植物として石化柳があり、ケイトウなどもそうだ。

マーガレットなどで石化が起こる原因は主に花芽形成期の栄養、特に窒素が過剰であるときに起きやすいといわれている。植物は体を大きくするための栄養生長と、子孫を残すための生殖生長をそれぞれ行なうが、栄養生長と生殖生長の切り替えは温度や日長などの条件で行なわれる。そのときに、一般的には窒素成分が多いと生殖生長への切り替えが起こり難くなることが知られており、生殖生長へ切り替わって花芽形成を行っているときに窒素が過剰になると栄養生長へ引き戻されそうになったり、生長点での細胞分裂が旺盛になることで細胞増殖が全体に均等なものでなくなるのかもしれない。

ともかく、イチゴの場合は頂花房といわれる植え付け後最初に出てくる花芽で鶏冠果が起こりやすく、栄養生長から最初の生殖生長に切り替わるところで旺盛に生育していること、花芽形成が行われているときに比較的気温(及び地温)が高いことなどが原因だと考えられる。

それ以外にも、イチゴでは奇形果が出来る原因として不受精(受粉が不十分であったり、そもそも花粉の稔性(活力というとわかりやすい?)が落ちていることによって起こる)と言うのもある。イチゴは、本当の果実は可食部の表面についているゴマのようなところであり(痩果という)、可食部は花床と呼ばれる部分なのだが、痩果がそれぞれ受精できていないとその部分の花床は肥大しない。つまり、受精(受粉)できていない部分とできている部分が混在するとせっかくもとの形がきれいであっても、部分的に肥大して形が崩れてしまう。曇天で低温が続くと、受粉を行なうミツバチの活動が低下するほか、花粉そのものの稔性も低下してしまうことが不受精が起こる原因である。

他の品目でも、例えばナスでは低温による花粉稔性の低下は石ナスと呼ばれる肥大しない硬いナスの原因となっている。少し前に放射線による奇形であるとして出回っていたトマトの写真もおそらく同様に低温によるものか単為結果(受粉を伴わない結実)に使われるホルモン剤の処理技術の失敗(処理回数過多)によるものではないだろうか。

また、仮に放射線が原因で遺伝子に異常が起こったとして、それが果実や花、茎葉の形成に関わる遺伝子であったとしても、「奇形になりながらも花芽や果実を形成する」確率は非常に低いと思う。放射線が遺伝子に異常を引き起こすメカニズムは「放射線によってDNAが損傷する」ということになると思うが、DNAの損傷がそのままならその細胞は分裂そのものが不可能になるだろう(アポトーシスが起こると思うが、この辺は理解が十分でないので、すこし違うかもしれない)。しかも、その付近にある細胞が同じように均等に遺伝変異が起こるとは考えられない。この辺りのメカニズムが理解できていれば、遺伝子に損傷を受けた細胞群が奇形を形成する範囲にうまくとどまる、と言うのは奇跡的な確率になると感じるのが普通だろう。つまり、奇形になるよりそもそも花や果実、茎葉を形成しなくなるのではないだろうか。

このように考えていくと、遺伝のメカニズム、放射線が遺伝子を損傷するメカニズムを理解していればそんなに奇形が頻発するはずはないことは容易に想像がつくと思う。そして、農業生産の現場に関わっていれば、奇形植物など原発事故前からいくらでも存在した事は常識である。そしてそれらの事は情報が隠蔽されているわけでも、捻じ曲げられているわけでもない。もし、そのことが信じられないのであれば、原発事故と関係が薄いと考えられる西日本の農家を訪ねてみればいい。JAや市場の規格に合わず、廃棄されている規格外の「奇形農作物」をいくらでも見ることが出来るはずである。そして、それらは新鮮である限り、スーパーの店頭に並ぶ野菜や果物より美味いかもしれない。

ほほ染める野菜たち

今頃の野菜といえば、ブロッコリーやナバナなどアブラナ科野菜が多い。この寒い中でもそれらの野菜はゆっくりと、だが確実に大きくなっている。しかし、ここのところの低温や霜によって葉などがいためられ、畑でそれらの野菜を見かけると、外側の葉ほど赤くなっているのを見たことはないだろうか?

それらの葉の色は、赤というより赤紫といったほうがイメージに合うかもしれない。それらは、なぜ赤くなっているのだろうか?

多くの植物でそうだが、それらの色はアントシアニンという色素である。アントシアニンとは花青素ともいわれ、多様な植物で花や果実などその鮮やかな色の元となっている。花青素の字面どおり、ヤグルマギクの青い色がアントシアニンを含むアントシアンの語源(ギリシア語で青い花の意味らしい)となっているが、条件によってはアントシアニンは青から鮮やかな赤まで変化するのである。

では、なぜ普段は顔を出さないアントシアニンが表面に出てくるのか。これらアブラナ科野菜の場合、よくあるのは寒さに当たることである。特に、ブロッコリーの葉や花蕾に霜が降りると顕著に赤くなる。また、栽培中に肥切れを起こしたときも下の葉から赤くなることがある。つまり、これらはストレスによって生成する。

アントシアニンは一般に紫外線をよく吸収するといわれ、必要以上の光が当たると表皮細胞にあるアントシアニンが紫外線を吸収し、葉緑素を保護するといわれている。このことから、低温になると炭酸同化作用が低下してくるので、過剰の光を吸収するためにアントシアニンが増加してくるのである。肥切れのときの赤色発現については、窒素が不足してくることにより葉緑素(クロロフィル)を分解して窒素を取り込むことによってアントシアニンが目立ってくると思われる。

アントシアニンはアスパラガスなどでも発現し、極端なものとしては紫アスパラガスなどの品種もある。他の品目でも紫キャベツやレッドオニオン、はつか大根など赤くなる品種がある。また、イチゴの赤もアントシアニンである。

アントシアニンポリフェノールの一種であり、機能性栄養成分として有名である。よく言われるのがブルーベリーなどの視力回復、眼精疲労軽減効果であろう。これらがどの程度の効果があるのかはわからないが、とりあえず一般にそういう認知があることは間違いない。しかし、本来そういう色をしている品目のものの場合は別として、通常緑色をしている野菜類でアントシアニンが発現しているものは、そういう機能性があるにもかかわらずたいていは等級を落とし、単価が下がってしまう。それは、そういう色が出ることが古かったり、傷んだりしているイメージがあるからだろう。アスパラガスでも、紫アスパラならありがたがられるのに、グリーンアスパラで根元が赤く着色しているものは出荷規格ではねられてしまう。このアスパラガスにしても、あるいはブロッコリーなどでもゆでればアントシアニンは退色し、きれいな緑色になるのだが・・・。イチゴでも低温などでへたの部分が赤紫に着色することがあるが、これも傷んでいると誤認されてクレームなどの原因となることがある。

というわけで、今頃の季節はブロッコリーやキャベツなどが赤くなっていても寒さのせいだし、特に今年は生長も遅れているので価格は高めかと思うが品質は悪くないので何とか買っていただきたい。赤い部分を食べてもポリフェノールがたくさん取れたと言うことで、かえって健康にいいかもしれないので(栄養学の専門家には怒られるかな?)ご勘弁いただきたい。

なお、赤い野菜といえばトマトやニンジンなどを思い浮かべる方もおられるかも知れない。しかし、それらはアントシアニンではなく、カロテノイドという物質(群)である。トマトのほうは効酸化作用で有名なリコピンというカロテノイドが主成分で、ニンジンのほうはこれも機能性成分として有名なβ?カロテンである。β?カロテンはどちらかというとオレンジというイメージであるし、実際サツマイモやマスクメロンなどもそうであり、アントシアニンの赤とはずいぶんイメージが違う。こちらの赤には傷んでいるとか古いとかいうイメージはほとんどないが、アントシアニンだって機能性でも負けてはいないので、差別することなくいろんな野菜を幅広く食べていただけると非常にありがたい。

ただし、機能性の部分については、あくまでこれらは食品であるので過剰な期待はしないようにお願いしたい。←とってつけたような結び(笑)。