アグリサイエンティストが行く

農業について思ったことを書いていきます。少しでも農業振興のお役に立てれば。

消費者にも安全・安心にはコストが必要であることを認識してほしい

さて、前回農薬の残留基準値がどのように決められているのかを解説した。よほどのことがなければ農作物の基準値超過は健康に影響がないことも書かせてもらった。
生産者の立場からすれば、あまりに厳しい制度であり、基準であると思うが、安全を保障するために法律という形で合意されているものであるし、法治国家である日本ではそれに従うほかはない。そのような中で、生産者は知恵を絞り、労力を使って少しでも品質と収量を向上させるために日々努力しているのである。

 

しかし、農業というものは自然相手の仕事であるし、そうそう思惑通りに運ぶものではない。思いがけない病気や虫にやられることがあるし、水不足や高温で生育が停滞したり、逆に雨続きで根を傷めたりすることもある。


いつごろ植えつけて、どのくらい肥料をやって、どの農薬をいつ使って、どの品種を選んで、など適切な選択こそが農業の技術なのであり、品質・収量の向上のために必要なことであるが、それらが果たして気象、市場動向などに対して正解の処置なのかはまさに「やってみないとわからない」のである。ようするにギャンブルみたいなものなのだ。

 

なので、自然と対策は”手厚い”方向へ向くようになる。また、日本の消費者は味に影響がなかろうと見た目の品質にこだわる人が多いため、少しでも単価を高くしようと思えば、というより他産地との競争に負けないためには虫や病気による傷や汚れなどはつけられない。


ということは、有機栽培などに取り組んでいる一部の人を除いて、農薬の使用は避けられないことになる。実際、生産の現場で仕事をするようになって感じるのは、よほど条件に恵まれているのでない限り、農薬抜きでの農業は考えられないということだ。農薬を使わなければ病気や害虫の大流行に対応しようがないし、大流行しても指をくわえて成り行きを見守りますというのではますますギャンブル的要素が強くなってしまう。

 

そこで、農薬を使うとなれば安全・安心を担保するためにもそのための法律である農薬取締法食品衛生法を遵守する必要がある。法律であるし、これを守ることは食品を生産するものとしては当然最低限の条件なのだが、これがまたなかなかに厄介な代物なのである。

 

まず、農薬というのは作物の種類(品目)ごとに使用できる農薬が決められている。これを登録農薬という。もちろん、農薬そのものは品目ごとに毒性が変わるわけではないが、前回説明したように、ADIがそのまま作物ごとに基準値として適用されるのではなく、いろいろな品目の農作物を一度に摂取しても残留値の合計がADIを越えないよう残留基準が決められている。このため、さまざまな状況を勘案して品目ごとに違う残留基準値が割り振られている。このことから、同じ農薬でも品目によって使用濃度、回数、収穫まで何日あけなければならないかが違ってくるのである。また、農作物の種類ごとに栽培条件や作物の形態が違うために残留の状況も違う。想像していただければわかるかと思うが、トマトのように重量があり、つるつるしているものとパセリのように軽く、くしゃくしゃのものでは農薬の付着量も違えば残留の程度もまったく変わってくる。だから、ひとつのやり方をいろいろな作物に一様に適用できないのである。

 

ということは、一つ一つの作物について、残留基準値の範囲内に収まるよう試験を行って使用濃度や時期を決めなければならないのだが、その試験はメーカーが行って農林水産省に申請し使用可能な農薬として登録する制度になっている(これは、農薬取締法という法律で運用されている)。その登録も品目(農作物の種類)ごとに行うことになっているので、新たな農薬が登録になったからといって、すべての品目で使用可能になるわけではなく、メーカーが試験を行い、申請し登録された品目のみ使用可能になるという仕組みである。

 

この登録制度は厳格に運用され、まったく同じ成分の農薬であっても、名前やメーカーが違えば使えない場合がある。仮に、Kというメーカーのガンチャン水和剤という農薬があったとしよう。これをKはトマトに使えるとして登録したが、同じガンチャン水和剤を製造しているW化学という会社があったとして、この会社がトマトに対する登録手続きをしていなければ、中身はまったく同じ農薬であってもWのガンチャン水和剤はトマトに使用することはできない。また、同じKが同じ成分ではあるが、剤型の違うガンチャン乳剤というものを製造していたとして、これを登録していなければやはりトマトには使えない。

 

しかし、試験および登録には非常に費用がかかるため、メーカーとしてはある程度の売り上げが見込めなければ登録申請は行わない。このため、安全性には問題はなくても使えない農薬が多く、特にマイナーな品目は農薬メーカーも登録をしにくいため生産者は農薬のやりくりに苦慮している。

 

農薬の登録制度というのは、これほど面倒な制度なのである。それでも、法律は法律なので、ほとんどの生産者は厳格に守っている。また、法律を遵守しているということを証明するため、農薬使用履歴の記帳にも取り組んでいる。これがかなり面倒な作業で、農薬のやりくりとともに生産者の栽培管理の中でも大きな負担となっているのだ。


詳しい説明はさらに長くなるので割愛させてもらうが、負担が増えればそれだけほかの管理作業に影響が出るし、その分品質や収量が低下することもありうる。その分の労賃というか人件費は誰も負担してはくれないのである。つまり、昔そのような履歴記帳などがなかった頃から比べると純粋に生産者の負担は増加しているわけだ。

 

また、その記帳された農薬の使用履歴は収穫前に使用された農薬の種類、倍率、時期などをチェックするために使われる。その農協や市場でのチェックを通らなければ出荷できない仕組みだ。そのために、農協や市場でも人員を割かなければならないし、履歴の様式の作成や配布などコストは増すばかりである。農協などでそのコストを吸収できればいいが、たとえその場ではしのいだとしても、いずれ何らかの形で生産者に対する負担になる可能性はある。

 

また、登録制度を厳密に運用するとなると、自分が農薬を使用しようとする対象農作物だけでなく、周りの作物にまで気を使う必要がある。農薬の使用方法のほとんどは、水で希釈しての散布(噴霧)になる。細かい霧状にして散布するわけなので、当然風があれば対象作物のあるほ場以外にも飛んでいくことになる。そこに農作物が植わっていて、自分が今使っている農薬がその作物に登録がなければその作物は意図しない違反農薬が付着することになる。これをドリフトというが、ドリフトを防ぐため生産者はさまざまな工夫をしている。防風ネットを張ったり、背の高い緑肥作物(ソルゴーなど)をほ場の周囲に生やしたり、あまり細かい霧になりにくいドリフト防止ノズルに交換したり、である。どれも、費用や労力が必要なものばかりである。

 

以上に紹介したものは、農薬に関する安全・安心対策のすべてではない。しかし、いずれにしても生産者の金銭的、労力的な負担を増すものであることはわかっていただけたと思う。農作物の消費者価格はほとんど上がっていないのに、生産者の、農家の負担は増すばかりである。とはいえ、これは安全・安心を求める消費者の声がそうさせているということを消費者自身がしっかりと自覚するべきだ。安全・安心を求めることそのものは当然のことなのだが、そこには当然コストというものが存在することを忘れないでほしい。いつまでも安全・安心がただで手に入ると思っていたら、早晩国産農作物は手に入らなくなるかもしれないと覚悟しておいたほうがいい。